大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

大阪高等裁判所 昭和29年(ネ)754号 判決

控訴人 中谷誠一

被控訴人 小島勇

主文

本件訴訟は、昭和三〇年一月二九日控訴の取下に因り終了した。

控訴人が、昭和三〇年四月五日附書面でなした口頭弁論期日指定申立以後に生じた訴訟費用は、控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は、「昭和三〇年四月五日附期日指定申立書を以て本件訴訟事件につき口頭弁論期日の指定を求める」旨申立て、その理由として、「本件につき控訴代理人中谷鉄也名義の昭和三〇年一月二八日附控訴取下書が提出されているが、訴訟代理人が控訴の取下をするには控訴取下の特別委任を必要とするところ、控訴人は、その訴訟代理人中谷鉄也に特に本件控訴の取下を委任していない。尤も控訴人の本件控訴審の委任状には、事件名を表示し、委任事項として右訴訟行為及び和解抛棄、認諾、控訴上告抗告及び其の取下等の不動文字を印刷されてあるが、これは例文であつて、控訴人本人の特別委任のない本件においては、前記控訴代理人中谷鉄也の為した本件控訴の取下は無効である。仮に右主張が認められないとしても、本件控訴の取下は、次のような事情の下に控訴人の錯誤によるか又は欺罔された為に為されたものであるから無効である。即ち、控訴取下書作成の昭和三〇年一月二八日に、被控訴代理人から控訴代理人に「今日私の処へ被控訴人達が控訴を取下げて欲しいと言つて来て居る。話がまとまつたそうです。」との話があり、(示談の内容につき何等の話もなく)、その二、三日前控訴人から控訴代理人方に電話があり「示談が成立したので、控訴を取下げて欲しい。」との連絡があり、控訴代理人の家人がその旨を聞取つた。従つて、当時控訴代理人、被控訴代理人とも控訴人と被控訴人間に示談が成立したことにつき、何等の疑をもたなかつた。そこで、控訴代理人は、至急に本件控訴取下書を作成して本件控訴を取下げたのである。しかるに、事実は之に反し、本件当事者間の示談の斡旋をした訴外尾崎藤作が、控訴人に対しては、「被控訴人は、控訴人に水をやろうと言つている。」旨申向け、反面被控訴人に対しては、「控訴人は、控訴を取下げる。」旨申向けたので、互にその言を信じ、本件控訴の取下を急ぎ為したのであるが、本件控訴取下後において当事者間に示談の交渉が為されたにも拘らず結局示談は成立しなかつた。以上の次第で、本件控訴の取下は、控訴人の錯誤によるか、又は欺罔されたかのいずれかであつて無効であるから、本件訴訟事件につき口頭弁論の指定を求める。」と陳述した。〈立証省略〉

被控訴代理人は、主文第一項同旨の判決を求め、その理由として、「本件控訴の取下は、控訴代理人中谷鉄也が控訴人から適法に委任された権限に基き為されたものであるから、固より有効であり、従つて、本訴は右控訴の取下に因り終了している。尚本件控訴が取下げられるに至つた事情は、次のとおりである。昭和三〇年一月二八日被控訴人は、被控訴代理人に「控訴人の方で控訴を取下げることとなつたので、その手続を頼む。」と申出たので、被控訴代理人は、同日和歌山弁護士会控室で控訴代理人中谷鉄也に右の旨を伝えたところ、右控訴代理人も亦控訴人から「控訴を取下げて欲しい。」と依頼されていたとのことであつたので、控訴代理人は、控訴取下書を作成し、被控訴代理人にその同意を求めると同時に大阪高等裁判所に対し郵送提出方を依頼した。そこで、被控訴代理人は、右控訴取下書に同意の署名捺印を為し、之を郵便に附した。そして、右控訴取下書は、翌一月二九日大阪高等裁判所に到達した。右の次第であるから、本件控訴の取下は、控訴人本人の意思に基き当事者双方の代理人により為されたものである。従つて、本件訴訟は、昭和三〇年一月二九日控訴の取下に因り終了した。仮に、本件当事者間の示談の斡旋をした訴外尾崎藤作の言を信じて控訴人が本件控訴の取下を為し、且つ、控訴取下後改めて当事者本人間に示談が進行し遂に示談が成立しなかつたとしても、私法上の錯誤又は詐欺に関す規定は、訴訟行為である控訴の取下には適用がないから、本件控訴の取下が、当然無効であると謂うことはできない。」と陳述した。〈立証省略〉

理由

昭和三〇年一月二八日附の「本件当事者間の本件控訴事件は、今回当事者間に示談成立したるにつき、当事者連署の上右控訴取下いたします。」との記載と、控訴代理人中谷鉄也の暑名捺印及び右に同意する旨の被控訴代理人真田重二の署名捺印とのある控訴取下書が、当裁判所宛に提出され、同月二九日当裁判所に受理されたことは、記録編綴の控訴取下書及び之に押捺されている受附印により明白である。控訴人は、右控訴の取下は、控訴人から控訴取下の特別委任を受けていない控訴代理人中谷鉄也によつて為されたものであるから無効であると主張するが、本件記録中の控訴審における控訴人の訴訟委任状、当審証人中谷鉄也の証言及び当審における控訴人本人尋問の結果(第二回)及び弁論の全趣旨を綜合すると、控訴人は、原審において弁護士中谷鉄也を訴訟代理人として応訴したが敗訴したので本件控訴を提起するに至つたが、その際右中谷鉄也に右控訴事件につき訴訟委任を為し、控訴人の意思に基き作成された委任者控訴人受任者弁護士中谷鉄也、特別委任事項として、印刷の不動文字で和解、抛棄、認諾、取下、控訴上告抗告及其取下等の記載のある委任状の控訴人名下に自己の印を押捺し、之を右中谷鉄也に交付したことを認めることができる。そうすると、控訴人は控訴代理人中谷鉄也に本件控訴事件につき訴訟委任を為す際、本件控訴の取下を為す権限をも授与したものと謂わなければならないから、控訴人の右主張は採用できない。次に、控訴人は、右委任状の印刷の不動文字による特別委任事項の記載は例文であるから、これによつて本件控訴取下の特別委任があつたということはできないと主張するが、訴訟の当事者が、弁護士に訴訟委任を為すに当つては、該訴訟の当初からその終了に至る迄の一切の訴訟行為を委任することが寧ろ通例であり、訴訟はその進行につれ種々変化し、当初予想しなかつた事態の発生することもあるし、又和解取下等の方法により事件の解決を為すべき場合も起り得るから、その都度特別委任を受けるのでは煩に堪えないのみならず、事件の解決の機会を失い、その為不測の損害を委任者に与えることもあり得べきを以て、弁護士が訴訟委任を受ける場合には、訴訟の如何なる事態にも対処し得るよう、特別委任事項を不動文字で印刷した委任状用紙を用いて委任を受けることが通例であることは顕著な事実である。そして何等特別の事情の認められない本件においては、前記委任状は右と同趣旨の下に特別委任事項を不動文字で印刷した委任状用紙を用いて作成されたものと認めるを相当とする。従つて、右委任状の前記特別委任事項が、印刷による不動文字であるとの理由のみで例文である旨の控訴人の主張は採用することができない。

次に、控訴人は、本件控訴の取下は、本件当事者双方に示談を斡旋した訴外尾崎藤作が、控訴人に対し、「被控訴人が控訴人に水をやるようにいつている。」と申向けたので、その言を信じ本件控訴を取下げるに至つたのであるが、事実上右言明の如き示談は成立していないし、取下後においても示談は成立しなかつたから、本件控訴取下は錯誤によりなされたもので無効であると主張するから、この点を考える。思うに、控訴取下のような訴訟行為については、たとえ錯誤があつても通常その効力に影響がなく、民法の錯誤に関する規定の類推適用もないものと解すべきである。けだし、かような行為は、国家の権利保護行為に対する基礎材料の一環を形成するものとして、爾後の訴訟手続の進行に影響を与える性質のものであるから、之が効力について訴訟手続の安定に対する顧慮を忘れることができないし、又それが裁判所に対する意思表示として公然且つ明確なるべきことから私法上の法律行為の場合以上に、当事者の慎重な配慮が要求されることとなる。従つて、かかる行為につき瑕疵の効果に関し専ら表示主義を貫徹しないときは、国家及び訴訟の相手方に対し多大の損害を与えることとなること明かだからである。従つて、控訴人のこの点に関する主張は、自体その当を得ないものと謂わねばならない。しかるのみならず、前掲の控訴取下書によると、当事者間に示談成立したから、当事者連署の上本件控訴を取下げる旨の記載があることが認められ、当審における証人尾崎藤作(第一、二回)、同西田定一(第二回)、同野人秀一の各証言及び控訴人本人尋問の結果(第一、二回)によると、本件控訴の取下前に尾崎藤作が仲に入り当事者間に示談の斡旋を為したことがあつたが、話合がつかず、控訴取下後においても、尾崎藤作の仲介の労も空しく示談が成立するに至らなかつたことを認めることができる。しかし、訴訟当事者間に示談(和解)が成立した為に控訴の取下を為した場合においても、該示談は、控訴取下を為すに至つた縁由となつたに過ぎず、固より控訴取下の要件となるものでないと解すべきである。本件において、控訴人が、未だ成立していない示談を既に成立して居るもの、又は成立する見込があるものと誤信し、本件控訴取下を為したとしても、右は単に縁由に錯誤があつたに過ぎず、本件控訴の取下、即ち、控訴の取下に因り本件訴訟を終了せしむることにつき錯誤があつたものと謂うことはできない。却つて、当審における証人尾崎藤作(第一、二回)、同土井保治、同野人秀一、同中谷鉄也の各証言の弁論の全趣旨を綜合すると、尾崎藤作は、昭和三〇年一月上旬頃控訴人から本件訴訟につき仲裁方を依頼され、以来仲介の労をとつて来たところ同月二六日頃控訴人が尾崎藤作方を訪れたので、控訴人に対し、「控訴人が、仲裁がうまく行けばそれに従うし、そうでなければ裁判をして貰うというような態度では、被控訴人側に真面目だと考えて貰えないから、此の際仏のような気持になつて訴訟を取下げ(当審証人尾崎藤作の証言の全趣旨から控訴の取下の趣旨と解す)、その上で仲裁に従つてはどうか。」と勧告したところ、控訴人は、「此の際貴方におまかせして取下げる。」と答えたこと、そこで、尾崎藤作は、被控訴人方に赴き、控訴人の右意思を伝えたところ、被控訴人は、同月二七日組合役員会を開き協議した結果、右控訴の取下には同意する、尾崎藤作の顔を立て、控訴人に対する今後のことは別に考慮する、同月二九日に組合総会を開いて具体的な解決方法につき役員会に一任して貰うことを決議し、同月二八日被控訴人は、被控訴代理人方に赴き同人に右の次第を述べ、控訴取下に関する手続を依頼したこと、控訴人は、之と別個に控訴代理人中谷鉄也の母に電話で右の次第を述べて同女を介し右代理人に右手続をすることを依頼したこと、被控訴人は、同月二九日に組合総会を開かんとしたが、出席者少く総会は成立せず、翌二月二日頃再び総会を開き総会が成立したが、他方控訴人は本件控訴を取下げたに拘らず被控訴人側が一月二九日に開くべき約束の組合総会を開催しなかつたことを理由に、欺むかれたと誤信して、示談をやめて、訴訟を続行する手続をする旨尾崎藤作を通じて被控訴人側で開催した総会に申出て来たので、遂に控訴取下後の善後策を決定するに至らずして、右総会は散会されたことを夫々認めることができる。

右認定に反する当審における証人西田定一(第二回)の証言及び控訴人本人尋問の結果(第一、二回)は、前掲の証拠と対比して採用できない。そうすると、本件控訴取下は、控訴人の意思に基き、控訴取下の権限のある控訴代理人中谷鉄也によつて為されたことは明らかであるから、固より適法且つ有効である。尚控訴人は、本件控訴取下は、欺罔に因り為されたものであるから、無効である旨主張するが、何人がいかなる欺罔行為を為したかにつき具体的な主張がないのみならず、欺罔に因る控訴取下が、控訴人主張の如く当然無効であると解すべき法律上の根拠もないから(欺罔による控訴取下の如き意思の瑕疵ある訴訟行為については、前掲錯誤ある控訴取下について説明したと同様、民法中詐欺による法律行為の規定の類推適用がないものと解すべきである)、右主張は固より理由がない。

以上の理由により、本件訴訟は、昭和三〇年一月二九日控訴の取下に因り終了したことが明白であるから、主文第一項記載の如く本件訴訟が終了した旨の終局判決を為すべく、控訴人が同年四月五日なした期日指定以後に生じた訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第九五条第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 朝山二郎 坂速雄 岡野幸之助)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例